昭和四十八年十一月十六日 朝の御理解
御理解第六十八節 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
ここには、こういう時に、こういう辛抱をさせてもらう事が、お徳を受けのるじゃ身に徳を受けるのじゃと教えておられます。
やはりここでも、お徳を受けるという事ですね。ですから、お徳を受けなければ、神様に喜んで頂くような、おかげが受けられませんし、私共も、本当の幸せになる事は出来ません。
その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。どういう時に辛抱させて頂かねばならないか、どういう時に辛抱したらお徳を受けられるのかと。
ここでは、雨が降るから、風が吹くからとこう言うとられます。けども人生の雨風とも思われるような時ですね、これは丁度、私共が、どんなに辛抱の出来ない時でも心眼を開かせてもらうと、不思議に楽に辛抱が出来るものです。
心眼とは心に映ずるという事だけではなくて、真実がわかるという事なのです。
心眼とは、肉眼的な見方、例えば、病気という、それは肉眼で見た姿は病気である けれども、それを心眼でもってすると、それは神愛である。ですから、その病気も神愛と思うたら有難いと。苦しいけれども有難いというものが伴うわけなんです。
そういう時なんですね、辛抱するのは。
※ ※ ※ ※ ※ 私、二十年も前だったでしょうか。もうその為にどうにも辛抱出来ない、難儀な問題がございました。もうそれこそ神様に泣きながら訴えるような事柄でした。
人間生身を持っとりますとね、本当に今から考えてみますと、あの位の事にどうして、苦しい辛抱出来なかったのか、出来んように苦しかっただろうかと思うんですけれども、やはり苦しい。
そしたら神様がそれこそ、心眼にしのぶという、つるしのぶというのがありますね 【】歯の一種です。それをこう丸くして、吊り下げて夏の縁先なんかによく掛けてあります。つるしのぶ、しのぶという植物です、【】歯。
あのつるしのぶを頂いた。そしたらですね、本当に憑いたものが取れたようにすっきりした事があります。何故からいうと神様が忍べとおっしゃるからには、これは神様に御都合があるからという事がわかるからなのです。
さあ辛抱せい、神様が辛抱せろとこうおっしゃる。さあ、ここが辛抱のしどころぞと。その辛抱した暁に神様が、何かが神様の思惑がある。
思惑とは何か神様が、おかげを下さろうとするのか、お徳を下さろうとする働きという、まあ言葉で出したらそういう事でしょうけれども、それを頂いたとたんに心の中がすっきりするものがある。
※ ※ ※ ※ ※ 福岡の秋永先生のところで共励会、まあ一晩中話して一番の電車で帰って来る、その時代でした。ほっと目が覚めた、ま、もちょっと眠れるからと思うて、眠ったら、もう眠ったが最後もう覚えんごと寝ておる。
ほっと、目が覚めたら、もう一番電車の電車の音が、ゴ-ッと聞こえる。これはしもうたと思うたけれども、夕べ寝とらんもんですから、又、うとうとと寝むりよった そしたら三代金光様のお声で『神様が見ておいででございます』とおっしゃった。 もうそれは目が覚めるというか、心がすっきりするというか、神様が見ておいでるという事は、私の修行を受けておって下さるという事でしょう。それを言葉に・・・ どうして、あんなにすっきりするだろうかという事はね、神様に見て頂いておると言う事は神様が受けておって下さるのが、この修行をと、思う時に心がすっきりする そういう時ですね、だからもう、ここんところでは、その辛抱こそ見に徳をうける修行じゃとおっしゃるけれども、もう次の瞬間には、それこそ辛抱せんで、もう有難いものになってきとるです。
※ ※ ※ ※ ※ 昨日も私はある方の事をお願いさせてもらいよった。そしたら、よう小指に、小指の爪をよく長くしとる人がありますね。
もう、それがこんなに長く。危なか、これは何か仕事どんしよるなら、生爪剥ぐがと思うような、長い爪がこう伸びているのです。
いうならば、我情我欲という、もうあれは、あんまり爪ば長くしよると、やりそこなうぞと、こう申しますね。爪を長くするということ。いうならもう、我情我欲というものがつのって、もう、つついっぱいの我情我欲で苦しんでいると。これは今つまなければ危ないと。
その事を伝えさせて頂きましたら、もう、ぽんと憑きものが落ちたようにして、帰られましたですね。親先生、そうおっしゃれば、これは本当に私の我情でしたということです。
何というですか、神の一言というですか。辛抱の出来んからこそ、お願いに来る。 けど、神の一言、いうならば、でおかげを頂いて辛抱の出来んところが辛抱が出来る。そういう時にお徳を下さる。神様が辛抱せいとおっしゃる時に辛抱する。
神様が何かを下さろうとするから辛抱せよとおっしゃる。小倉の初代の連れ合いでありますところの二代小倉教会長であります、桂みつ先生の時もやっぱりそうであった。もう、この事だけは誰がどうおっしゃっても、辛抱出来んという事があった。
とうとう、それこそ耐えきれずに、郷里に帰られた。そして四神様の御取次を頂かれた。そしたら、「おみつさん、辛いかい」と、「もう、辛いの何のじゃございません。もう他の事なら、四神様、どういう辛抱でも致しますけども、これだけは辛抱出来ません」と言われた。
「さあ、そこを神に縋って辛抱するのじゃ」とおっしゃった。ね、神様に縋って、そこを辛抱するのです。だからその四神様の御言葉の向こうには、それこそ二代教会長として永い間、小倉の教会長としての大徳を受けられたのですからね。
さあ、そこを神に縋って辛抱するのじゃと。
※ ※ ※ ※ ※ 心眼とはね、皆さん、これは昨日頂いた事ですから書いておいて下さい。
“心眼とは、不思議なる価値転換の霊力も持って心の動きであります”よいですか、心眼とは不思議なる価値転換、値打ちですね価値、それの転換の霊力をもった心の動きであります。
ですから、どうしても心眼を開かなければ、もう苦しい、苦しい、どうして自分だけこんなに苦しい思いをせなければならんのであろうかというのは、肉眼での考え方からなのです。今のこと皆、書いて下さいましたですか、心眼とは不思議なる価値転換の霊力をもった心の働きであります。そういう事なのです。
例えば、難儀ということを感じておる時、それはもう価値はないのです。只、難しい、苦しいばっかりです。けれども、心の眼をもっていたら、例えば神の一言で、自分の心が、ああ神様がこんなにして鍛えて下さってあるんだとわかった時です、心がいわゆる転換するわけです。
しかもそれは価値あるもの。どういう価値かというと神様が下さろうとするものを頂き得る心の働きだというわけです。
それは霊力をもった心の働きなんです。だから心眼を開かなければなりません。その都度、都度に。だから御教えを本気で頂かねばなりません。どういうわけですか、【】という事はありません。 ※ ※ ※ ※ ※ 昨日、末永先生のところのおじいさんにあたられます、いわゆる壱岐の教会の初代教会長の四十五年の式年に当たっておる。
勿論、壱岐の教会では、その式年祭があった事でございましょうけれども、こちらに孫達が三人居るわけです。末永先生、それからむつ屋、それから紀久男さん、ですから孫達三人話合って、末永先生が中心になって、それに曾孫達まで二人ながら来とりましたが、もう、本当に何ちゅうですか、真心いっぱいとはこういう事だろうと思うような、真心をもって四時の御祈念に合わせて、御挨拶をさせて頂きました。
神様にその事の御礼を申さして頂いとりましたら、もうこれが世界中のお花じゃろうかというような、あの草花がね、例えば、百合とか、薔薇とかまだ見た事のないような、ハワイあたりで咲くような花、それをこんなに沢山、もうそれを根元をしっかり、こうくくってある、あの束ねてあるわけです。
それをパラフィン紙に包んでありますから中まで見える。すけて見えるわけです。 それをこう捧げておるところを頂いた。まあ末永先生をはじめ、兄弟達の止むに止まれん、もうそれは教会では充分なさっておられるけん、こっちから遙拝しとこうではよいわけです。
いうならば、お取次を頂いてなら今日は、四十五年の式年祭ですからというてもよいわけです。けど、もうこれは止むに止まれんものです。それこそ、おじいさんの好きであったものを沢山お供え頂いてのお祭りとは、只、御挨拶さして頂いたわけですけれども、そして又、霊様の前で御挨拶をさして頂いとりましたら、ああ、この方が初代教会長だなと思われる方がね、もう、それこそ大きな大蛇にまたがっておられるのです。大蛇の首のところにね。
こう丁度、馬の手綱のようなのがこう掛けてある。その大蛇を自由自在にこう乗りこなしておられるところを頂きました。
まあ、大蛇と言えば大変なめぐりという事でございましょうかね。めぐりが大きければ大きいだけ、おかげが大きいとおっしゃるのはです、めぐりが大きければ、難儀があるという事。けどその難儀を辛抱しぬくから、それが力になるのです。お徳になるその辛抱しきれんところをです、さあ神に縋って辛抱せいよとおっしゃる。
さあ、ここは一つ忍ばねばいけないぞと言うて下さる。さあ、あなたが眠いこと神様が見ておいで、知っておいででございます。もう神様が知っておいでである。
神様がここは忍べとおっしゃる。ならばです、その一言で、私の心の中に、これ程苦しかったものがすっきりするように、神様が見ておいでという時に、もう眠さも無ければきつさもない。飛び起きて二番の電車で帰らせて頂けるように、そういう時に私は身に徳をうける者というのは、そうい事だと思うです。
例えば金光様の先生でもせなければならない、初代の教会長としてのおかげを頂かれるまでには、それこそ深い大きな、それこそ大蛇のような大きな、壱岐の末永の家にはあった事であろう。
その大蛇にさんざん悩まされ苦しまれた事であろう。けどそのめぐり様のおかげでそのめぐりのおかげで、そのめぐりを駆使する事が出来る。使いこなす事が出来る。 どういうめぐりの深いものが参ってきてもです、それを自分の事として、引き受けてお取次が出来るような、働きを頂いておられる。
孫達が、曾孫達が、こうやって真心をこめて作ったこの花束をです、しかも世界中の花だろうと思われる世界中の花をです、自由自在に活けこなすだけの働きをもっておられる。本当に有難いなと思わせて頂いたんですけれどもです、私共はここは辛抱出来んというところを、神様に縋らなければいけない。そこに本気で御理解を繰り返し繰り返し頂かにゃいけん。
そこんところから心が開けてくる。いうなら、肉眼で見ておった時に、どうしてこんな難儀な、こんな辛抱しきれんと思うような場合であっても、心の眼をもってすると御神意がわかる。本当の姿がわかる。
本当の事がわかる時にです、もう不思議に憑いたものが落ちるようにその悩みから解脱する事が出来る。そういう時に徳を受ける。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとおっしゃられる。ですから、もういっぺん、今日私が申しましたことを良く心の中で繰り返して見て下さい。
心眼とは、不思議な価値転換、今まではこういう苦しい問題、難儀な問題と思うておったのが、御教えを頂いて,心がパッと開けた時にです、それは神愛であるとわかる。神様の御都合であるわかる。神様が忍べとおっしゃるから不思議に忍れる。
いわゆる価値、値打ちあるものとしての転換を遂げる時なんである。自分としてはこういう難儀、こういう苦しみと思うておったその苦しみが、いわゆる、その災いが転じて幸せの土台、基になっ来るのです。そういう時に、ああの時に力を受けたな、あの時に徳を受けたなと思うようなおかげになる。
そのところをその辛抱こそ身に徳を受ける者じゃとおおせられた。
心眼とは不思議なる価値転換の霊力をもつ。その不思議な事です、今まで苦しかった事がすっきりするのですから。
昨日私がお取次さして頂いたように、自分の小指にこんなに爪の長い事を言うておる時にはです、もうそれは辛抱出来ない。
これはとても相手を見逃すわけにはいかないという程しに、それは、けれども、爪の長い、我情でいっぱいである時であった。御理解を頂いて、親先生本当にそう言われれば私の爪が長すぎとる。
御礼を申し上げれば、とにかく十日の内に九十九は御礼を申し上げねばならない事を、たったこれだけの事に小指の爪を長うしとるばっかりに苦しんでおる事に気づかせて頂いて、もうそれこそ憑きものが落ちたようにすっきりした。
このすっきりした気持ちを主人にも伝えたら、主人も又、すっきりするであろうと言うて帰られた。そういう霊力を持っておる心の眼が開けた。そういう霊力をもった心の働きがそのまま心眼だという事なのです。
だから信心とはね、確かに、信心して肉眼をおいて心眼を開けよとおっしゃる事がわかる。肉眼で見る時には苦しいこと、心眼をもってすれは有難い事。
こんな天地程の開きになっくるのですよ。それは口で言えば簡単ですけれども、なら、壱岐の初代教会長がです、それこそ大蛇のような大きなめぐりに、どの位、散々悩み苦しまれたかわからないけれども、そういうめぐりが大きければ大きい程、そのめぐり様のおかげで、いわゆるめぐりを自由自在に使いこなせる事が出来る程しのおかげを受けておられる御霊様である事をです、昨日わからせてもろうた。
本当に有難い事だと思うた。今日はとりわけその辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃという事を聞いて頂きましたね。
どうぞ。